朝鮮の王陵

坡州 三陵

恭陵(朝鮮第8代・睿宗の元妃・章順王后の陵)

章順王后韓氏(1445~1461)は上黨府院君・韓明澮の三女で、1460年(世祖6)に王世子だった睿宗と結婚し、王世子嬪に冊立された。結婚の翌年に元孫(王世子の長男。仁城大君)を産んだものの産後病(出産と関係する病気)のため17歳で早世し、舅である世祖は章順の諡号を贈って現在の場所に章順嬪墓を造った。1470年(成宗1)に章順王后として追尊されたことで陵に格上げされ、恭陵となった。

坡州 長陵

長陵(朝鮮第16代・仁祖と元妃・仁烈王后の陵)

仁祖(1595~1649、在位 1623~1649)は王として追尊された元宗と仁献王后の息子で、綾陽君の称号が贈られた。1623年に反正によって光海君が廃位されると王位に就いた。1624年に李适の乱が起きるなど、王権を安定させるのに苦労した。また、軍制を整備して軍事力の強化に取り組んだが、当時後金(清)を排斥する外交政策をとったことから後金の二度の侵略(1627年の丁卯胡乱と1636年の丙子胡乱)を受けた。55歳の時に昌徳宮大造殿で死去した。

高陽 西三陵

西三陵は「西にある3基の陵」という意味で、1537年(中宗32)、献陵(太宗と元敬王后)の西にあった禧陵(中宗の継妃・章敬王后)をここに移したのが最初である。1544年に中宗の陵を禧陵の西の丘(現在の睿陵の場所)に造営して中宗と章敬王后の陵を合わせて靖陵と名づけたが、1562年(明宗17)に中宗の陵だけが現・ソウル市江南エリアに移されて章敬王后の陵は元どおり禧陵と呼ばれるようになった。また、1545年に仁宗の孝陵が造営され、その後も昭顕世子の昭慶園と哲宗の睿陵が境内に造られた。

金浦 章陵

章陵(追尊王・元宗と仁献王后の陵)

元宗(1580~1619)は宣祖と仁嬪金氏の三男で、1587年(宣祖20)に定遠君の称号を贈られ、壬辰倭乱(文禄の役)の際に宣祖に扈従(供として従うこと)したことから扈聖功臣となった。1619年(光海君11)に40歳で死去し、1623年に長男・綾陽君(仁祖)が反正(クーデター)で光海君を廃位させて王位に就くと大院君の君号を贈られたが、大臣たちの反対によりなかなか王にはなれず、元宗として追尊されたのは仁祖が即位してから10年後のことだった。

楊州 温陵

温陵(朝鮮第11代・中宗の元妃・端敬王后の陵)

端敬王后慎氏(1487~1557)は益昌府院君・慎守勤の娘で、1499年(燕山君5)に晋城大君(のちの中宗)と結婚して府夫人となり、1506年に反正によって夫・中宗が王位に就くと王妃に冊立された。しかし、父親の慎守勤が中宗反正に反対したことを理由に、王妃になって7日で廃位された。

高陽 西五陵

西五陵は「西にある5基の陵」という意味をもち、九里東九陵に次いで規模の大きい朝鮮王陵群である。世祖の長男・懿敬世子(追尊王・徳宗)の懿墓(敬陵)が最初に造営され、睿宗の昌陵、順懐世子の順昌園、仁敬王后の翼陵、粛宗の明陵、貞聖王后の弘陵がここに造られた。1970年代には暎嬪李氏の綏慶園と玉山府大嬪張氏の大嬪墓もここに移されて、5基の陵と2基の園、1基の墓が集まった現在の姿になった。

華城 隆陵と健陵

隆陵(追尊皇帝・荘祖と献敬皇后の陵)

荘祖(1735~1762)は英祖と暎嬪李氏の息子で、生まれた翌年王世子に冊立され、1749年(英祖25)、15歳の頃から英祖に代わって政事を執った。しかし、父・英祖との確執から心を病み、老論勢力とも対立した末、1762年(英祖38)に廃位され、米びつに閉じ込められて死去した。

ソウル 泰陵と康陵

泰陵(朝鮮第11代・中宗の3人目の王妃・文定王后の陵)

文定王后尹氏(1501~1565)は坡山府院君・尹之任の娘で、1515年に中宗の継妃・章敬王后が死去した後1517年(中宗12)に王妃に冊立され、中宗との間に明宗を含む1男4女をもうけた。1545年に息子・明宗が仁宗の後を継いで即位すると8年間垂簾聴政を行い、その後も引き続き政事を牛耳った。

ソウル 貞陵

貞陵(朝鮮第1代・太祖の継妃・神徳皇后の陵)

神徳皇后康氏(?~1396)は象山府院君・康允成の娘で、高麗の名家の出身である。高麗末期に咸鏡道出身の武官だった太祖(李成桂)の京妻(故郷に本妻を残したまま都で新たに結婚した妻)で、太祖が中央政界に進出して勢力を伸ばす上で重要な役割を果たした。

ソウル 懿陵

懿陵(朝鮮第20代・景宗と継妃・宣懿王后の陵)

景宗(1688~1724、在位 1720~1724)は粛宗と玉山府大嬪張氏(禧嬪張氏)の息子で、1690年(粛宗16)に王世子に冊立され、粛宗が死去すると王位に就いた。後嗣がなかったため異母弟の延礽君(第21代・英祖)を王世弟に冊立して政事を執らせたが、このことにより老論と少論が激しく対立し、辛丑獄事と壬寅獄事の二度の獄事(=反逆や謀殺などの絡む事件)が起こった。

ソウル 宣陵と靖陵

宣陵(朝鮮第9代・成宗と3人目の王妃・貞顕王后の陵)

成宗(1457~1494、在位 1469~1494)は世祖の孫で、王に追尊された徳宗(懿敬世子)と昭恵王后(仁粋大妃)韓氏の次男である。1461年(世祖7)に乽山君(者乙山君)の称号が贈られ、1469年に睿宗が死去すると祖母・貞熹王后の命を受けて即位した。

ソウル 献陵と仁陵

献陵(朝鮮第3代・太宗と元敬王后の陵)

太宗(1367~1422、在位 1400~1418)は太祖と神懿皇后の五男である。朝鮮建国の際に手柄を立て、1392年(太祖1)に靖安君の称号を贈られた。しかし、異母弟の世子冊立などに不満を抱いて王子の乱を起こし、反対勢力を排除して1400年に王位に就いた。

南楊州 光陵

光陵(朝鮮第7代・世祖と貞熹王后の陵)

世祖(1417~1468、在位 1455~1468)は世宗と昭憲王后の次男で、若いころは晋平大君、晋陽大君と呼ばれ、1445年(世宗27)に首陽大君の称号が贈られた。1453年(端宗1)に癸酉靖難を起こして政権を掌握し、1455年に端宗の譲位を受けて即位した。

南楊州 思陵

思陵(朝鮮第6代・端宗の王妃・定順王后の陵)

定順王后宋氏(1440~1521)は礪良府院君・宋玹寿の娘で、1454年(端宗2)に王妃に冊立されたが、翌年端宗が世祖に王位を譲り、懿徳王大妃となった。

九里 東九陵

東九陵は約450年にわたって造営された9基の陵が集まる朝鮮最大の王陵群で、7人の王と10人の王妃が眠っている。1408年(太宗8)、朝鮮を建国した太祖の健元陵をはじめとして、文宗の顕陵、宣祖の穆陵、顕宗の崇陵、荘烈王后の徽陵、端懿王后の恵陵、英祖の元陵、憲宗の景陵が次々と築造された。

南楊州 洪陵と裕陵

洪陵(大韓帝国第1代・高宗と明成皇后の陵)

朝鮮第26代王(1863~1897)であり大韓帝国第1代皇帝(1897~1907)でもあった高宗(1852~1919)は、追尊・献懿大院王(興宣大院君)の息子で、1863年に神貞皇后の命を受けて即位した。世界情勢に合わせて西洋諸国と国交を樹立するとともに、近代国家体制を整えるために改革を推進した。

驪州 英陵と寧陵

英陵(朝鮮第4代・世宗と昭憲王后の陵)

世宗(1397~1450、在位 1418~1450)は太宗と元敬王后の三男で、1408年(太宗8)に忠寧君の称号を、1412年(太宗12)に大君(王の正室が産んだ王子)の称号を贈られた。1418年に長兄・譲寧大君が王世子の座を退くと王世子に冊立され、2カ月後に太宗の譲位を受けて即位した。

寧越 荘陵

荘陵(朝鮮第6代・端宗の陵)

端宗(1441~1457、在位 1452~1455)は文宗と顕徳王后の息子で、文宗が死去したことで、わずか12歳で王位を継承した。しかし、叔父である世祖が政権を奪取した宮廷クーデター事件(癸酉靖難)を起こして政権を握ったため、2年後に世祖に王位を委譲して上王となった。